Matsuo Bashō: Oku no hosomichi

松尾 芭蕉、奥の細道
松尾まつお 芭蕉ばしょう  
寛永かんえい21年(1644年) - 元禄げんろく7年10月12日(1694年11月28日)〕は現在の三重みえ伊賀いが出身しゅっしん江戸えど時代前期ぜんき俳諧はいかいである。通称つうしょうとう七郎しちろうちゅう右衛門うえもん。名は宗房むねふさ俳号はいごうとしては初め実名じつめい宗房を、次いで桃青とうせい芭蕉はせをあらためた。蕉風しょうふうばれる芸術性げいじゅつせいの高い句風くふう確立かくりつし、俳聖はいせいと呼ばれる。
芭蕉が弟子でし河合かわいともない、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸をち東北、北陸ほくりくめぐり、岐阜ぎふ大垣おおがきまで旅した紀行文きこうぶん 『奥の細道』がある。  
     
     【平泉ひらいずみ
三代さんだい栄耀えいよう一睡いっすいうちにして大門だいもんあと一里いちりこなたにあり。 秀衡ひでひらが跡は田野でんやなりて、金鶏山きんけいざんのみかたちのこす。 まづ 高館たかだちのぼれば、きた上川がみがわ 南部なんぶよりながるゝ大河たいが なり。 衣川ころもがわは、和泉いずみしろをめぐりて、高館の下にて大河にる。 泰衡やすひら旧跡きゅうせきは、ころもせきへだてて南部ぐちをさしかたえぞふせぐと見えたり。 さてしんすぐってこの城にこもり、功名こうみょう一時いちじくさむらとなる。 「くにやぶれて山河さんがあり、しろ はるにしてくさ あおみたり」 と、かさ 打敷うちしきて、ときうつるまでなみだおとはべりぬ。 
   夏草なつぐさや つわものどもが ゆめあと
の花に 兼房かねふさ見ゆる 白毛しらがかな     

ひかりどう
かねみみおどろかしたる二堂にどう 開帳かいちょうす。経堂きょうどう三将さんしょうぞうのこし、光堂は三代のひつぎおさめ、三尊さんぞんほとけ安置あんちす。七宝しちほうちりうせて、たまとびら風にやぶれ、こがねはしら 霜雪そうせつくちて、すで頽廃たいはい空虚くうきょ叢となるべきを四面しめんあらたかこみて、いらかおおい風雨ふううしのぎ暫時しばらく 千歳ちとせ記念かたみとはなれり。 
    
五月雨さみだれの ふりのこしてや 光堂


現代語訳:
藤原ふじわら氏三代の栄耀も、一睡の夢のようなもので、毛越寺もうつうじの南大門の跡は、一里ほど手前にある。秀衡ひでひら伽羅きゃら御所ごしょの跡は田野になり、金鶏山のみがむかしの形を残している。まず高館に登ると、(眼下がんかに)北上川が流れていて、この川は南部地方から流れてくる大河である。衣川ころもがわ和泉いずみが城をまわって、高館たかだちの下で大河に流れこんでいる。泰衡やすひららの旧跡は、衣が関を隔てて向こうにあり、あたかも南部口を固めて蝦夷えぞ侵入しんにゅうを防ぐためのように見える。それにしても、義経よしつね忠義ちゅうぎ家臣かしんりすぐってこの城にこもり、その巧名こうみょうも一時のことであって、いまはただの草むらとなっている。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり (杜甫とほの詩)」の心境しんきょうに、笠をいてこしをおろし、しばらくの間、涙を落としていた。
目の前にはただ夏草がしげっているだけだが、ここは昔、義経一党いっとうや藤原一族いちぞくらが功名や栄華えいがの夢にふけった跡である。しかし、それも束の間の夢として終わってしまった。何と無常むじょうなことよ。 
あたりのっ白い卯の花を見るにつけ、兼房かねふさ (義経よしつね忠臣ちゅうしん) が白髪をみだしてたたかっている姿がしのばれる。 曾良(のうた)
前々から聞いておどろいていた二堂が開帳していた。経堂には、三代の将軍しょうぐんたちの像を残していて、光堂には三代の棺を納め、ほかに三尊の仏像ぶつぞうを安置している。七宝はせ、珠玉しゅぎょくかざった扉は風で破れ、金箔きんぱくはしらしもや雪のために朽ちてしまい、すんでのところでむなしくてた草むらとなってしまうところを、後世こうせいの人が四方を新しくかこみ、、屋根やねがわらおおって、風雨ふううをしのいでいる。しばらくは遠い昔の記念を残すことになったのである。 
五月雨も、ここ光堂にだけは降らずにきたものか。こんなに美しく光りかがやいているのだから。