Akutagawa Ryūnosuke: Bisei no shin

芥川龍之介: 明治二十五年(一八九二)東京に生まれ、昭和二年(一九二七)に自殺じさつした作家で、その作風は外国作家の影響えいきょうもあったが、もり鴎外おうがい(一八六二 — 一九二二)や夏目なつめ漱石そうせき(一八六七 — 一九二三)の感化が強い。日本の古典やキリシタン文学などの未開拓みかいたくの方面に素材そざいを発見し、それを近代的な立場からとりあげていき、大正期の代表的短編たんぺん小説家となった人である。

作品 

羅生門らしょうもん (1915) 

はな (1916) 

手巾ハンカチ (1916)  Das Taschentuch

煙草たばこ悪魔あくま (1916)

蜘蛛くもの糸 (1918)  Der Faden der Spinne

蜜柑みかん (1919)  Mandarinen

南京ナンキン基督キリスト (1920)

子春ししゅん (1920)

アグニの神 (1920)

やぶの中 (1921)  Im Dickicht

猿蟹さるかに合戦かっせん (1923)

河童かっぱ (1927)

歯車はぐるま (1927)  Zahnräder

ある阿呆あほう一生いっしょう (1927)

仙人せんにん (1922)

尾生の信

 尾生びせいは橋の下にたたずんで、さっきから女の来るのを待っている。
 見上げると、高い石の橋欄きょうらんには、蔦蘿つたかずらが半ばいかかって、時々その間を通りすぎる往来の人の白衣はくいすそが、あざやかな入日いりひに照らされながら、悠々ゆうゆうと風に吹かれて行く。が、女はだに来ない。
 尾生はそっと口笛くちぶえならしながら、気軽きがるく橋の下のを見わたした。
 橋の下の黄泥こうでいの洲は、二坪ふたつぼばかりの広さをあまして、すぐに水と続いている。水際みずぎわあしの間には、大方おおかたかに棲家すみかであろう、いくつもまるあながあって、そこへ波が当るたびに、たぶりとうかすかな音が聞えた。が、女は未だに来ない。
 尾生はやや待遠まちどおしそうに水際までを移して、舟一艘いっそう通らない静な川筋かわすじながめまわした。
 川筋には青い蘆が、隙間すきまもなくひしひしとえている。のみならずその蘆の間には、所々ところどころ川楊かわやなぎが、こんもりと円くしげっている。だからその間をう水のおもても、川幅かわはばわりには広く見えない。ただ、おびほどのんだ水が、雲母きららのような雲の影をたった一つ鍍金めっきしながら、ひっそりと蘆の中にうねっている。が、女は未だに来ない。
 尾生は水際から歩をめぐらせて、今度は広くもないの上を、あちらこちらと歩きながら、おもむろに暮色ぼしょくくわえて行く、あたりの静かさに耳をかたむけた。
 橋の上にはしばらくの間、行人こうじんあとったのであろう。くつの音も、ひづめの音も、あるいはまた車の音も、そこからはもう聞えて来ない。風の音、蘆の音、水の音、――それからどこかでけたたましく、蒼鷺あおさぎく声がした。と思って立止たちどまると、いつかしおがさし出したと見えて、黄泥こうでいを洗う水の色が、さっきよりは間近まぢかに光っている。が、女は未だに来ない。
 尾生はけわしくまゆをひそめながら、橋の下のうす暗い洲を、いよいよ足早あしばやに歩き始めた。その内に川の水は、一寸いっすんずつ、一尺いっしゃくずつ、次第しだいに洲の上へ上って来る。同時にまた川から立昇たちのぼのや水の も、つめたくはだにまつわり出した。見上げると、もう橋の上にはあざやかな入日の光がえて、ただ、石の橋欄きょうらんばかりが、ほのかにあおんだ暮方くれがたの空を、黒々と正しく切りいている。が、女は未だに来ない。
 尾生はとうとう立ちすくんだ。
 川の水はもうくつぬらしながら、鋼鉄こうてつよりもひややかな光をたたえて、漫々まんまんと橋の下に広がっている。すると、ひざも、はらも、むねも、おそらくは頃刻けいこくを出ない内に、この酷薄こくはく満潮まんちょうの水にかくされてしまうのに相違そういあるまい。いや、そう云う内にも水嵩みずかさますます高くなって、今ではとうとう両脛りょうはぎさえも、川波の下にぼっしてしまった。が、女は未だに来ない。
 尾生は水の中に立ったまま、まだ一縷いちるのぞみ便たよりに、何度も橋の空へをやった。
 腹をひたした水の上には、とうに蒼茫そうぼうたる暮色ぼしょくが立ちめて、遠近おちこちしげった蘆ややなぎも、さびしい葉ずれの音ばかりを、ぼんやりしたもやの中から送って来る。と、尾生の鼻をかすめて、すずきらしい魚が一匹、ひらりと白い腹をひるがえした。その魚のおどった空にも、まばらながらもう星の光が見えて、蔦蘿つたかずらのからんだ橋欄きょうらんの形さえ、いち早い宵暗よいやみの中にまぎれている。が、女は未だに来ない。……
       ―――――――――――――――――――――――――
 夜半やはん、月の光が一川いっせんの蘆と柳とにあふれた時、川の水と微風そよかぜとは静にささやかわしながら、橋の下の尾生の死骸しがいを、やさしく海の方へ運んで行った。が、尾生のたましいは、寂しい天心の月の光に、思いこがれたせいかも知れない。ひそかに死骸をけ出すと、ほのかに明るんだ空の向うへ、まるで水のや が音もなく川から立ちのぼるように、うらうらと高く昇ってしまった。……
 それからいく千年かをへだてたのち、この魂は無数の流転るてんけみして、また生を人間じんかんたくさなければならなくなった。それがこう云う私に宿やどっている魂なのである。だから私は現代に生れはしたが、何一つ意味のある仕事が出来ない。昼も夜も漫然まんぜんと夢みがちな生活を送りながら、ただ、何かきたるべき不可思議ふかしぎなものばかりを待っている。ちょうどあの尾生が薄暮はくぼの橋の下で、永久えいきゅうに来ない恋人をいつまでも待ち暮したように。
(大正八年十二月)


自殺
じさつ
Selbstmord
作風
さくふう
literarischer Stil
影響
えいきょう
Einfluß
感化
かんか
Beeinflussung
未開拓
みかいたく
unerschlossen
素材
そざい
Stoff, Material
発見
はっけん
Entdeckung
立場
たちば
Standpunkt
とりあげる

aufnehmen, aufgreifen
代表的
だいひょうてき
typisch
短編小説家
たんぺんしょうせつか
Novellist
悪魔
あくま
Dämon
蜘蛛
くも
Spinne
蜜柑
みかん
Zitrusfrüchte; Orange
アグニ

Agni: Gott des Feuers
やぶ
Gebüsch
さる
Affe
かに
Krabbe
合戦
かっせん
Schlacht
河童
かっぱ
Flußkobold
歯車
はぐるま
Zahnrad
阿呆
あほう
Dummkopf
仙人
せんにん
taoistischer Heiliger
佇む
たたずむ
stehen bleiben; herumstehen
橋欄
きょうらん
Geländer der Brücke
蔦蘿
つたかずら
Rankengewächs, Efeu
這う
はう
kriechen
往来
おうらい
Verkehr
すそ
Saum, Schleppe
白衣
はくい
weißes Gewandt
かな
あざやかな
frisch, klar, hell
入日
いりひ
Abendsonne
照らす
てらす 
bescheinen, beleuchten
悠々と
ゆうゆうと
ruhig, gelassen
吹く
ふく
blasen; wehen
口笛
くちぶえ
Pfeifen
鳴す
ならす
ertönen lassen, läuten
気軽に
きがるに
leichten Herzens, sorglos
Sandbank
見渡す
みわたす
überblicken
黄泥
こうでい
gelber Schlamm
どろ
Schlamm, Schmutz
剰す、余す
あます
übriglassen
水際
みずぎわ
Ufer, Strand
きわ
Rand, Kante, Seite
蘆、葦
あし
Schilf
棲家
すみか
Behausung, Wohnung
かすかな

leise, Schwach, undeutlich
やや

etwas, ein wenig
移す
うつす
verlegen; die Richtung ändern
川筋
かわすじ
Flußlauf
隙間
すきま
Lücke, Spalt, Öffnung
ひしひしと

bedrängend
のみならず

außerdem, dazu noch, überdies
柳、楊
やなぎ
Weide
こんもりと

dicht, üppig
茂る
しげる
wuchern, üppig wachsen
縫う
ぬう
nähen, sich durchschlängeln
澄む
すむ
klar werden, sich aufhellen
雲母
きらら
Glimmer
鍍金する
めっきする
plattieren, mit etw. überziehen
ひっそりと

still, ruhig, geräuschlos
うね

sich wellenförmig bewegen
おもむろに

langsam, ohne Eile
暮色
ぼしょく
Abenddämmerung
傾ける
かたむける
neigen
跡を絶つ
あとをたつ
spurlos verschwinden
沓、靴
くつ
Schuhe
ひづめ
Huf
けたたまし

lärmend, durchdringend
蒼鷺、青鷺
あおさぎ
Fischreiher
しお
Flut
さし出す

ausstrecken
険しい
けわしい
steil, schroff; streng, scharf
まゆ
Augenbraue
ひそめる

zusammenziehen
うす暗い
うすぐらい
halbdunkel
いよいよ

immer mehr; schließlich
足早に
あしばやに
eilends
立昇る
立ちのぼる
in die Höhe steigen, aufsteigen
Seegras
まつわる

sich ranken um, sich winden um
ほのかに

schwach, verschwommen
青む
あおむ
blau / grün / blaß werden
暮方
くれがた
Abend, Abenddämmerung
切り抜く
きりぬく
ausschneiden
とうとう

schließlich, am Ende
立ちすくむ

wie versteinert stehen
濡らす
ぬらす
naß machen, anfeuchten
鋼鉄
こうてつ
Stahl
湛える
たたえる
vollgießen, füllen
漫々
まんまん
endlos, grenzenlos, ausgedehnt
恐らく
おそらく
vermutlich, möglicherweise
頃刻
けいこく
kurze Zeit
酷薄な
こくはく
grausam, unmenschlich
満潮
まんちょう
Flut
隠す
かくす
verstecken, verbergen
相違ない
そういない
es ist kein Zweifel
...まい

... nicht tun
いや

nein
水嵩
みずかさ
Wasserstand, Wasserpegel
はぎ、すね 
Unterschenkel, Schienbein
没する
ぼっする
versinken
一縷
いちる
ZEW
便り
たより
Stütze
浸す
ひたす
eintauchen, in eine Füssigkeit legen
蒼茫たる
そうぼうたる
blau und weit; grenzenlos
立ち罩める
たちこめる 
verhüllen, einhüllen, über etw. hängen
遠近に
おちこちに
nah und fern, weit und breit
すれる

sich (aneinander) reiben
ぼんやりした

undeutlich, verschwommen
もや
Dunst, leichter Nebel
掠める
かすめる
streifen, leicht berühren
すずき
Meerbrasse
ひらりと

flink, schnell, gewandt
翻す、飜す
ひるがえす
umdrehen
疎な
まばらな
spärlich, dünn
蔦蘿
つたかずら
Rankengewächs, Efeu
絡む
からむ
umranken
いち早い
いちはやい
schnell, geschwind
宵暗、宵闇
よいやみ
abendliche Dunkelheit
紛れる
まぎれる
schwer zu unterscheiden sein
夜半
やはん
Mitternacht
溢れる
あふれる
überlaufen, überfließen
微風
そよかぜ
leichte Brise, Lufthauch
囁き交わす
ささやきかわす
miteinander flüstern, wispern
死骸
しがい
Leiche
たましい
Seele, Geist
天心
てんしん
himmlischer Wille
思い憧れる
おもいあこがれる
Sehnsucht haben
ひそかに

heimlich
抜け出す
ぬけだす
verschwinden, herausschlüpfen
ほのかに

schwach, verschwommen
うらうらと

friedlich leuchtend
隔てる
へだてる
zw. etw. liegen
流転
るてん
Seelenwanderung
閲する
けみする
untersuchen; lesen, sehen
託す
たくす
anvertrauen
漫然と
まんぜんと
ziellos, planlos
不可思議な
ふかしぎな
übernatürlich, wunderbar
...がち

leicht ... ;  zu ... neigen
...べき

sollen, müssen
薄暮
はくぼ
Abenddämerung
永久に
えいきゅうに
für immer, ewig